今週の例会

    【【 この例会のメークアップ受付は 終了しています 】】

メールフォームにてのメークアップの方は必要事項をご記入の上、送信してください。
2720 Japan O.K. ロータリーEクラブではFAXでも受け付けております。
詳細については、『メークアップの方法』にてご確認ください。

下記の「今週の設問」にご回答ください。回答方法は次のとおりです。

1つまたは複数の設問に対してご回答ください。
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開会点鐘・歌の斉唱





会長の時間:バッジしてますか?


会長の時間第三回も、動画でお話いたします。よろしくお願いします。



出席報告


例会 第2回【通算第143回】 2020年7月13日正午~7月20日正午(出席数・出席率 7月20日
正午)


会員数 出席義務者 出席数 出席率
57 54 41 75.93%

例会 第1回【通算第142回】 2020年7月6日正午~7月13日正午(出席数・出席率 7月13日
正午)


会員数 出席義務者 出席数 出席率
57 55 47 85.45%

幹事報告


幹事報告
(1)来信紹介
(2)各種行事のご案内
(3)その他
(4)理事会報告


《来信紹介》


《 ロータリー文庫WEBサイトご利用のご案内》
 2720地区事務所より、ロータリー文庫WEBサイトご利用のご案内が届いています。
 HP利用方法ご案内-地区(会員のみアクセスできます)

《ハイライトよねやま》
米山記念奨学会よりマンスリーニュース「2020年7月13日発行 第244回ハイライトよねやま」が届いています。

::今月のトピックス::
------------------
・2019-20年度寄付金結果
・事務局長交代のお知らせ
・理事会開催報告
・米山学友中心のクラブが医療支援プロジェクト
・マレーシアの子どもへマスク支援

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2019-20年度寄付金結果
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
2019-20年度の寄付金は約13億3,600万円でした。

新型コロナウイルスの影響により2月から寄付が徐々に減少し始め、最終的に前年度比5.3%減(普通寄付金:1.3%減、特別寄付金:7.1%減)、約7,500万円の減少となりました。2019年度予算は13億7千万円で見積りましたが、予算達成とはなりませんでした。

このような苦しい状況にも関わらず、皆さまからいただいたご支援に心より御礼申し上げます。今年度も引き続き、ご支援ご協力を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

【個人平均寄付額TOP3】
1 第2590地区:27,190円
2 第2660地区:26,378円
3 第2770地区:25,592円

【個人平均寄付額の前年度比伸び率TOP3】
1 第2630地区:111.5%
2 第2600地区:108.2%
3 第2660地区:105.9%

※記事の続き、およびそのほかの記事は、ぜひPDF版をご覧ください。
 highlight244_pdf


《各種行事のご案内》


《ガバナー公式訪問 合同例会&懇親会》
 日 時…8月27日(木) 18:30〜
 場 所…ホテル日航大分オアシスタワー(大分市高砂2−48)
 対 象…全会員

《クリスマス家族例会》
 日 時…11月21日(土) 18:00〜
 場 所…ホテルザーズ 「レストランサッポロ」
 https://www.facebook.com/events/210622720223938

《今年度のスケジュール》
・新型コロナウイルス感染拡大を受け、変更になる場合がございます。その際は変更連絡いたします。
 2020-21 前田雅史会長年度 スケジュール

《会長・幹事 事務局慰労会》

7月15日に早水直前会長、久保田前幹事、事務局岩崎さんの慰労会を薬真寺副会長の大分センチュリーホテルにて行いました。

コロナ渦感染防止の為、対策を取りながら今回は前田雅史会長、薬真寺副会長、他会長幹事経験者の少人数にて開催しました。
全員にお声掛けできませんでした事をお許しください。

偶然大分にいらしていた武田会員も急遽参加されお祝いの唄をご披露下さいました。



《ご報告》


令和2年7月豪雨で当クラブ会員4名が罹災した事に対して、ワールド大阪ロータリーEクラブ様がリアル例会の時に義援金の呼びかけを行ってくださりました。当日集まった40万円を7月17日にお振込みいただきました。心よりお礼申し上げます。
皆様も是非、ワールド大阪ロータリーEクラブ様をメークアップ訪問されてください。
ワールド大阪ロータリーEクラブ:http://senshu-kumatori-eclub.jp/index.html


横浜鶴見北ロータリークラブの今井新一郎様(当クラブサポーター様)より50口のお見舞金をいただきました。サポーターとして当クラブを支えていただき、また被災会員に対する温情に心から感謝申し上げます。


《理事会報告》


Facebook理事会グループにて協議の上、以下の項目が決議されました。

1.クレジットカード(ロータリーカード)について
○振込手数料の軽減、事務作業の簡素化、また国際ロータリーもロータリアン及び各クラブに対して積極利用を進めていることから、クラブとしてロータリーカードを作成・利用する事となりました。

2.令和2年7月豪雨罹災会員の出席について
○本人の意思を確認した上で出席を免除する事となりました。

3.ガバナー公式訪問の懇親会費について
○8月27日(木)18:30に開催されます「ガバナー公式訪問 合同例会&懇親会」の懇親会費用は、お弁当+飲み放題で1人5,000円となりました。


《監査報告》


2019~2020年度 会計監査  佐藤 知博


2019~2020年度 決算書を会員専用ページに掲載していますので、ご覧いただきますようお願いいたします。


<サポーターの地区別・クラブ別人数>


【お礼】
2020年7月19日現在、1クラブと総数18名のクラブ外ロータリアンの皆様に「サポーター」となっていただいています。心より感謝申し上げます。

【サポーター制度について】
当クラブにはサポーター制度があり、サポーターを随時募集中です。
サポーターの会費は年間(6月末までの年度毎)¥10,000(税込み)で、サポーターの方にはメークアップ証明書を無料で発行致します。
サポーターご希望の方は、「サポーターお申し込みフォーム」ページより、お手続きをお願いいたします。

会員各位におかれましては、お知り合いのロータリアンに制度をご案内いただき、おひとりでも多くの方にサポーターとなっていただき、当クラブ運営に参画いただければと存じます。

【サポーター数】
(2020~2021年度)2020年7月19日現在 1クラブ・18名  
 


他地区計(サポータークラブ1RC・3名)


地区 クラブ名 人数
2740 佐賀
2590 横浜鶴見北 1
2700 久留米 1
2690 鳥取 1

2720地区計(15名)


        
地区 クラブ名 人数
2720 玉名中央
2720 熊本
2720 熊本東 1
2720 熊本西稜 1
2720 中津 1
2720 宇佐2001 1
2720 大分 3
2720 大分臨海 2
2720 大分中央 2
2720 大分キャピタル 1
2720 津久見 1

※ 今月のお祝い ※


出席100%のお祝いと、会員誕生日を紹介していますので、会員専用ページにてご確認ください。
(7月のお祝いページにて掲載しています)
https://ok2720eclub.jp/member/


今週のスマイルボックス


♡ 前田 雅史 会員      5 口
なんと2週連続の吉報!木原さん第一子のご誕生おめでとうございます!

♡ 宮迫 賢太郎 会員    2 口
松浦会員、木原会員、第一子おめでとうございます!いずれも、母子共に健康そうでなによりです。2口スマイルいたします。



♡ 有志一同      8 口
7月15日に開催された前年度会長幹事事務局慰労会にて、参加者よりスマイル頂きました。





ゲスト卓話:ダルク・薬物依存からの回復



鈴永 貴博 氏
(特定非営利活動法人 大分DARC 施設長)


初めまして。私は大分ダルクという福祉施設で施設長をしております鈴永と申します。この度は、このような機会をいただきまして心より感謝申し上げます。

まず初めに、ダルクの概要についてご説明します。ダルク(DARC)とはDrug Addiction Rehabilitation Centerの頭文字をとった造語で、1985年(昭和60年)に日本で初めて創設された薬物依存からの回復を支援する民間施設です。東京で最初のダルクが立ち上がって今年で30年経ちますが、今や日本全国の他、お隣韓国にも活動が広がり、約70か所のダルクがあります。大きな特徴は、創設者の近藤恒夫をはじめ、ダルクで働くスタッフのほとんどが薬物依存症からの回復者です。私自身も薬物依存症者です。またそれぞれのダルクは運営的に独立しており、それぞれの地域や事情に即した形で運営をしております。しかし横のつながりは大切にしており、他県ダルクのイベントに応援に行ったり、年に数回は全国ダルクスタッフの研修会が開催されております。


大分ダルクは1997年(平成9年)に開所した、全国で12番目のダルクです。開所当初は法人格を持たない無認可施設として活動をスタートさせましたが、2007年(平成19年)に法人格を取得し、現在の「特定非営利活動法人 大分DARC」が誕生しました。


ダルク利用と回復プログラムについて


ダルクの利用形態は入所と通所があり、入所利用は共同生活を通して生活習慣を整えるとともに、日中はダルクデイケアにてプログラムを受けます。通所利用は、自宅やアパートからダルクデイケアに通います。断薬初期や依存傾向が強い方は入所をお勧めしています。

ダルクデイケアでのプログラムは1日1~2回行われるグループミーティングが柱となります。グループミーティングとは、日替わりのテーマに沿って自分の経験や希望を話す場です。言いっぱなし聞きっぱなしのスタイルで行われますが、これは今から85年ほど前に出来、今も全世界で広がり続けているアルコール依存症の自助グループの手法を基にしています。グループミーティングの中で、正直に自分の話をすることで、自分を認め、受け入れ、仲間たちと経験や苦しみを分かち合い、希望を見出します。

グループミーティングの他にも日替わりで運動プログラムや地域の奉仕活動、医療機関での心理教育やレクリエーションなどに参加します。また、刑務所や病院での出張ミーティングや、学校や各種機関での薬物乱用防止教室などの普及啓発活動も行っています。









薬物依存症とその回復について


薬物依存症はWHO(世界保健機関)でも認められている精神疾患です。依存物質を含む薬物の継続的な摂取により発症すると考えられています。ただどの程度使用を続ければ依存症になるのかは、個人差もあります。

例を挙げると、薬物を使用すれば自分に不利益(家庭不和、浪費、解雇、逮捕など)を被ることが明らかなのに使用を止める事が出来ない、という状態は依存症であると考えてよいと思います。回復していくペースは個人差があり、ダルクを利用して1年ほどで社会復帰する方もいれば 2~3年かけてプログラムに取り組まれる方もいます。

また依存症は完治しない慢性疾患であり、年単位で薬物の使用が止まっていてもまた再使用(再発)してしまうということもよくあります。ダルクを卒業しても、自助グループ(依存症の人が自主的に集いミーティングをするグループ)につながっていることが回復の大きな手助けになります。

※依存物質を含む主な薬物とは:覚醒剤、大麻、コカイン、ヘロイン、MDMA、睡眠薬、向精神薬
市販の痛み止め・咳止め薬、ブタンガス、アルコール(アルコールも薬物の一種として考えます)等


ご家族への支援について


薬物依存症はご家族や周りの人を巻き込む病気と言われています。薬物に依存すると、お金の浪費が激しくなったり、仕事にも影響が出てくることがほとんどです。違法薬物を使用している場合は、逮捕されることもあります。

このような事態に陥ってもほとんどのご家族は依存症の問題とは捉えられずに、「意志が弱い」「倫理観が欠けている」「無責任」という人間性の問題と理解して、批判し、非難し、嫌悪し、怒りを強めていきます。本人に反省を促したり、交換条件を出して何とか道を正そうとしますが、根本的に依存症という病気の状態になっていれば、治療が必要であり、いわゆる叱咤激励だけで問題が解決することはありません。このような情報不足の中でも、隣近所に安易に相談できる内容ではないと考え、本人はもとより、ご家族もストレスを高め、孤立していきます。

ご家族には、まず薬物依存症を正しく理解し、正しい対処法を学んでいただく必要があります。またご家族という同じ立場の方と出会うことで、具体的な対処法などの知識や経験を分かち合うことも大切です。大分ダルクでは精神科クリニックと連携し、毎月家族教室を開催しています。本人をどうにかするよりも、まずはご家族が家族会などに繋がる事が本人の回復を早めることにもつながります。



大分ダルク相談窓口
電話:097-574-5106(月~金、9時から17時)
メール:opensesame88@nifty.com
来所希望の方もまずはお電話かメールでお問い合わせ下さい。


自己紹介


それでは前後しましたが、ここから自己紹介を兼ねて私の体験談を書かせていただきます。

私は1975年3月に大阪で生まれました。今年で45歳になります。子供の頃、父親は小さな塗装屋を営んでおり、母親は事務仕事を手伝いながら主婦をしておりました。5つ上の兄は私には優しかったですが、中学に進学するといわゆる不良グループに入り、問題を起こしては父親に鉄拳を喰らう、そんな姿を目の当たりにするようになりました。とは言え、今思えば家族4人でたまの休日にはドライブにも出かける平凡で幸せな家庭でした。そんな日常が急変したのが10歳の時でした。

10月のとある日曜日、父親はその日楽しみにしていたゴルフコンペに朝早くから出かけましたが、ゴルフ場で突如倒れて帰らぬ人となりました。心筋梗塞だったそうです。あまりにも突然の出来事で、私自身は悲しかったという感情さえ記憶にありませんが、当然ながら母親はひどく落ち込み、毎日毎夜泣いている、そんな日々が長く続きました。父親が居なくなったということよりも、母親が悲しみに暮れる姿を見るのが辛く感じました。会社のことを巡って、親戚の人たちがよく言い争いをしていました。居間で好きなテレビを見ていても、台所からすすり泣きが聞こえると避けるように自室に閉じこもりました。学校ではそんな心情が悟られないように、極力ひょうきんに振舞っていました。

中学に入り、ラグビー部に入部しました。放課後、日が暮れるまで練習に打ち込み、自分がしたかったことを見つけた気分でした。2年生に上がると3年生を差し押さえてレギュラーの座をつかみました。試合でも活躍し、自分の存在を強く感じ始めていた矢先、急性腎盂炎という病気に罹りました。運動のし過ぎが原因のひとつと聞かされました。3か月間の入院、その後も自宅療養をし、学校は2・3学期のすべてを休むことになりました。3年生になり復学しましたが運動は禁止でしたので、ラグビーはおろか、体育の授業さえ見学しないといけませんでした。

ラグビー部はマネージャー的な立ち位置で見学を続けました。自分たちの代になった同級生たちは厳しい練習を積み重ね、近畿大会で準優勝するまでに強いチームなりました。しかしチームの盛り上がりに反して仲間たちの功績を素直に喜べなくなっていき、いつしか練習に顔を出すのもバカバカしいと思うようになりました。自分の居場所を家にも学校にも見つけられなくなり、たどり着いたのが夜の公園にたむろするいわゆる不良グループの中でした。何かの歌ではありませんが、タバコをふかし、盗んだバイクで夜の街を走り回っている時が唯一、嫌なことを忘れられる瞬間でした。

その後、何とか偏差値の低い地元の工業高校に進学しました。しばらくして医師から運動解禁のお墨付きをもらい、再びその高校のラグビー部に入部しました。当初は自分自身、鳴り物入り気分で意気揚々とグラウンドに行き、練習に参加しました。しかし、約2年間のギャップなのか、私自身がいつの間にか身に付けた言い訳癖やふてくされ癖なのか、きつい練習について行けずに次第に幽霊部員のような存在になっていきました。

そんな頃、中学時代のある友達と遊ぶようになりました。別の高校に進学した彼はサーファーになっていました。日に焼けて、茶髪のカーリーヘアーで、服装もおしゃれで、明るく、女の子にももてる存在でした。私にないものをたくさん持っている、そんな魅力を感じました。服装もしゃべり方もその友人の真似をするようになりました。今までグラウンドで汗を流すことが自分の輝ける道だと思っていた信念を簡単に曲げて、夜の街のクラブ(ダンスミュージックを大音量で流す方)に通うようになりました。

ある時、その友人が不意に大麻を勧めてきました。「大麻」とは言わず「ハッパ」と言っていました。私は少しの怖さがあったものの、断ると友人をガッカリさせるのではないか、試しに1回だけなら大丈夫だろう、と自分に言い聞かせて大麻を吸引しました。17歳の時でした。私はそれまで麻薬使用者と言えば、テレビの啓発CMや学校の予防教育で見聞きした、錯乱状態で包丁を振り回したり、煙突に登り意味不明なことを叫んだりするイメージを持っていましが、私が体験した感覚は、お酒にほんのりと酔った感じで陽気な気分になるというくらいのものでした。これくらいなら大したことはないと思うようになり、それからその友人と遊ぶときは必ず使用するようになり、大麻を通して新しい友人も出来ました。そんな日々がしばらく続きました。



ある晩、数人で友人の部屋で大麻を使用していた時、ある友人がおもむろに別の薬物を出してきました。それは覚せい剤でした。ただ「スピード」といった隠語で読んでいたので、その時は何なのかはよくわかりませんでした。友人が「あぶり」という方法で使用していて、私にも勧めてきました。すでに大麻を使用していたことで薬物に対するハードルが低くなっていた私は、大麻の時と同様に「1回だけなら」と考え、勧められるままに「スピード」を使用しました。初めて使用した覚せい剤は、やはり錯乱状態にはなりませんでしたが、気付けば異常に気力が湧いてきて、それまでうつうつと抱えてきた劣等感を吹き飛ばしてくれました。根拠はないが何かすごいことができそうだ、そんな気分になりました。大げさに言えばスーパーマンになったかのような気分でした。

それでも初めのうちは、その友人を頼らないと使用することが出来なかったので、月に1~2回使用する程度でしたが、いつしか自分一人で使ってみたいと思うようになり、売人の連絡先を教えてもらい自ら購入するようになりました。その間、数か月だったと記憶しています。使用してもしばらくすると「効き目」は切れてくるのですが、「その快感」を求め続けるようになりました。気付けばほぼ毎日使用するようになり、「その快感」は以前と同じ使用量では感じられなくなってきたため、必然と使用量が増えていきました。

二十歳のころには、もうどっぷりと覚せい剤の闇の中に居ました。覚せい剤の精神症状なのか、妙に被害妄想が強くなり、他の人たちが自分の悪口を言っているような気がしたり、車に乗っていても後をつけられているような気持ちになっていきました。お金も相当にかかりました。当時、旅行関係の会社で仕事をしていましたが、その給料のほとんどがクスリ代に消えていきました。それだけでは足らず、母親にウソをついてお金を取りました。もうつくウソが無くなった時には、寝ている母親をたたき起こして「ええから金出せや!」と言って出させたこともありました。こんな風に正に悪化していったわけですが、それは自分自身でもよくわかっていました。ただなぜこんなにまでに暴走してしまうのかはどう考えてもわからなかったし、それが自分の人間性だと思うようになりました。

21歳の頃、会社から香港に駐在をする話をいただき、この地元から離れればクスリが止められると思い、受けさせていただきました。香港では慣れない環境で新しい仕事を覚えるのに必死でした。いつの間にかクスリの欲求も無くなっていき、新しい人間関係にも少しづつなじんでいきました。半年位した時、今まで迷惑をかけた母親に親孝行のようなことをしたいと思うようになり、祖父と母と兄を香港に招待しました。観光地を案内したり、レストランで本場の中華料理を食べてもらい、母親は涙を流して喜んでいました。自己満足ですが、いい事が出来てよかったという思いでした。



その後、現地での仕事も徐々に慣れていき余裕が出てきたころ、ふと、ある考えが頭をよぎりました。「あの怪しい通りにいる香港人に声をかければクスリが手に入るのではないか…」私はその考え通りに、「怪しい通り」に行き、「怪しい人」に声をかけると、あっさりとクスリを買う事が出来てしまいました。そしてまたその日から毎日クスリを使うようになりました。それから1年、クスリを使いながらなんとか仕事を続けていましたが、精神状態も悪化していき、死にたいとも思うようになりました。いたたまれなくなり会社に適当なウソを言って退社し地元に帰ってきました。

地元に帰っても、また以前と同じようなどうしようもない生活に逆戻りでした。大幅に話を端折りますが、それからも紆余曲折あり、27歳の時にクスリを買いに行った先で逮捕されました。初めて留置場に入れられた時、なぜか「もう使わなくていいんだ」と思うとホッとして涙がこみ上げてきました。不思議な感覚でした。面会に来てくれた母親は怒りながら泣いていました。

その後、起訴され裁判を受けることになりましたが、初犯の自己使用ということで執行猶予付きの判決をいただき社会に戻ることができました。そしてその次の日、もう書くのもつらいですが、また覚せい剤を買いに行き、使用しました。そしてそれから2週間後、再び逮捕されました。その後、約2年半、刑務所で服役することとなり反省の日々、と言いたいところですが、実際はなぜこんなところに入れられなくちゃいけないんだと思うことが多かったですし、同じ懲役仲間とはクスリ話をすることも多かったです。もちろんもう絶対にやめよう、と強く思うのですが、その反面、捕まらないようにうまく使う方法を模索する自分がいたりもしました。



刑期を終え、当然のように家に帰れると思っていましたが、迎えに来てくれた母親が言ったのは「ダルクに行くか、自分ひとりで生きていくか、どちらかを選びなさい」という言葉でした。ほとんどパニックになりながら、何とか家に帰してもらいたいと「ああだこうだ」と言いましたが、母親は頑として曲げてくれませんでした。そうしてとりあえず地元のダルクに連れて行かれ、スタッフに「あなたは薬物依存症という病気だよ」と言われました。強く否定したくなる自分と、そういうことだったのかと妙に納得する自分がいました。その後、スタッフに付き添われ、北九州のダルクに行くことになりました。

北九州ダルクの入所者は僕以外に5人おり、その日からダルク生活が始まりました。これまた紆余曲折ありましたが、私は1年3か月ほど入所したのち、ダルクの近くでアパートを借り、一般就労をしました。ダルクでできた仲間とは、夜にある自助グループのミーティングを通して関係を継続しました。仲間とはいろいろといがみ合うこともありますが、本音の部分で分かり合える、そんな存在になっていきました。ある仲間が「もうダルクを出てクスリを使おうと思う」と打ち明ければ、「気持ちはわかるけどもう少しだけ頑張ろうよ」と言って励ます、そんなことがたくさんありました。

社会で1年ほど仕事をした後、当時の施設長から声をかけていただき北九州ダルクのスタッフになりました。またその1年ほど後、施設長と一緒に大分ダルクの再建に関わらせていただくことになり、2009年に大分に来ました。1年間ほど当時の施設長と共に活動をしましたが、2010年の9月に施設長が事故で急逝され、後を継がせていただく形で私が施設長をさせていただくことになりました。

突然のことで、気持ちの整理がつかない中でのことでしたが、依存症のプログラムには「自分の考えを使わない」という言葉があります。私が「ああだこうだ」「どうのこうの」考えたところでいいアイデアは出ない、出たためしがない、ダルクに来たのも、スタッフになったのも、大分に来たのも、自分が望んだということはなく、むしろ私の考えとは逆だった、でもそうしてきたことで私は今助かっている、ハイヤーパワー(自分を超越した力)の計画は、私が求めたものは与えてくれないが、願いは聞き届けられていた、そういうことだったと今は理解しています。

それから10年、たくさんの仲間たちと出会いました。途中でドロップアウトした仲間もたくさんいましたし、亡くなってしまう仲間もいました。しかし大分ダルクを巣立ち、社会復帰して頑張っている仲間たちもたくさんいます。

私自身は今から4年前にある女性と結婚しました。ささやかながら式を挙げさせていただき、母親をはじめ家族、ダルクの仲間たち、大分で出会った諸先輩や友人たちからたくさんの祝福をいただきました。かつての私にはどうにもならなかった現実からは、想像もできなかったことが起こっています。今の楽しみは週末に妻と愛犬とカフェ巡りやキャンプをしたり、海に出かけることです。当然ながら結婚生活は自分の思い通りにいかないこともありますが、自分を省みて相手を慮れば乗り越えられる、そんなこともダルクに来て学んだことのひとつです。

薬物依存症は回復できる病気です。ダルクは薬物を使っていた人たちの集まりだから、やめるのは難しいのでは?と言われる人たちもいますが、私はそのようなご指摘も含めてやめ続けるための気づき、再び生きるための気づきを与えてくれる場所だと思っています。

余談ですが、私が大分に来てからあるラガーマンの医療関係者と出会いました。誘っていただき、別府のクラブチームに入部しラグビーを再々開しました。近くで試合があるとダルクの仲間たちが応援に来てくれます。また昨年、ある大会で試合に出場した時に、耳の後ろを切り、大会の帯同ドクターに芝の上で縫合してもらいました。そのドクターは今回、この原稿の話を下さった植山様の旦那様でした。そんなたくさんのご縁に恵まれて、今では大分を第二の故郷として生きています。

最後に、この目に見えにくい活動を地道に支え続けて下さる多くの支援者の方々に心より感謝申し上げます。その方々のおかげで今の大分ダルク、私たちの居場所、生き場所が在ることを強く再認識し、私の体験談を終わりにしたいと思います。最後まで読んでいただきましてありがとうございました。



閉会点鐘



メークアップ


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080-3221-3377